バケモノの子
年 | 2015年 |
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時間 | 119分 |
監督 | 細田守 |
母を亡くし親戚から逃げ出した9歳の蓮は熊の顔をしたバケモノ(熊徹)に出会い、バケモノの町「渋天街」で暮らすことになる。蓮は熊徹の弟子になり、「九太」という名前をもらって修行に励む。熊徹には猪顔の猪王山というライバルがいて、どちらが次の宗師(渋天街の長)になるかで競い合っていた。九太も生長し、ついに熊徹と猪王山の宗師決定戦が行われることになったが…。
映画館で見られなかったので初鑑賞はレンタルで。渋谷の描写がすごいリアルでびっくりしたのを覚えてます。アニメで現代の都会が写実的に描かれるのも新鮮な感じがする。これは今作に限らずアニメで実際に存在する都市部を写実的に描く作品全般に言える気がしますが、なんででしょうね、どんなに詳細に描かれていても架空の町より、自分が見知っている現実の町がアニメで再現される方がインパクトが強いのだろうか。
「渋天街」は渋谷と紙一重の空間に存在してるもよう。バケモノと言っても獣人ですね。皆動物なので、エイリアンみたいな類はいません。獣人に混じって人間の子どもが一緒に暮らす。獣人の世界でもあまり例のないことのようで、最初は物珍しそうにされますが、結局は受け入れて共に暮らしてくれる獣人たちの優しさが嬉しい。熊徹の友人2人組の百秋坊と多々良が味のあるキャラでよいです。なんだかんだ言っても修行の旅にまで付き合ってくれてるものなあ。
身勝手で人望のなかった熊徹の対極として描かれるのが猪王山。強い上に品位があり人望も大きく多くの弟子を持つ人格者。妻も子もあり、ケチのつけようがない生活ぶり。実際かっこいいし、猪に惚れ直します。一郎彦の気持ち分かるよ、あんなお父さんを持ったらそりゃお父さんみたいな大人になりたいと願うだろうなあ。
九太と熊徹、そして離婚して離れ離れになっていた蓮の父を巡る父と子の物語ですが、人の心が持つ闇も絡んできて後半はアニメならではの見どころも大きいです。
<ネタバレ>
熊徹の後をつけて「渋天街」に迷い込んでしまった蓮は、帰り道が閉じてしまって人間の世界に帰れなくなる。しかし8年後に再び道が開き、九太(蓮)は「渋天街」と人間の世界を行き来できるようになる。これは親戚に好きなようにされようとする・父が迎えに来てくれない辛い人間の世界に戻りたくないと思っていたのが、九太が生長して自分の中の"人間"に再び目を向けられるようになった…ということではないかと思っています。九太が蓮に戻って人間の世界で生きたいと考えるようになるのは、生長に伴う自然な流れに思えるし。
楓の存在はちょっと都合よすぎな感もあるけど、九太が人間の世界に戻るための橋渡しに誰かが必要だったのは分かるから、よしとする。「渋天街」と人間界を行き来して楓に勉強を教わり学力を上げていく九太だけど、「渋天街」で教科書を広げるのはちょっとシュール(^^;。教科書を見つけて怒る熊徹は、子が一人前になって親元から巣立とうとしてるのを認められなくてうろたえる親のようにも見えたりして、ちょっと面白かったり。
ぶつかり合いながらも一緒に暮らすうちに、九太と熊徹の間にはいつしか父子の絆が育まれていた。九太が熊徹に育てられたなら、熊徹も九太を育てることで生長する。子を育てることで親も育てられる。親が子から得ることも子の生長と同じくらい大きい。九太が窮地に陥った時、あんなに自分勝手だった熊徹が九太のために動いた。熊徹、ついに"本物のお父さん"になりましたね…子どものためなら身を捨てられるのが親だから。
人間の実父に再会できた九太は父にも父の事情があったことを知り、蓮に戻って人間の世界で父と暮らし始める。人間のお父さんも九太と熊徹のように蓮くんといい絆を育てていけたらいいね。
可哀相だったのが一郎彦。彼も九太と同じく人間で、赤ん坊の時に猪王山に拾われて彼の実子という形で育てられた。一郎彦が人間であることは周囲にも伏せられ、本人も自分が人間であることを知らなかった。しかし人間が猪の外観になることはない。父への憧れと尊敬が強いほど、育つにつれて何故父と同じ姿にならないのか疑問が膨れ上がって苦しかったろう。自分は人間ではないかと思うようになってからは、人間として堂々と振る舞えている九太に羨望や嫉妬を感じるようになっていったと思われます。ここに人格者と思われた猪王山の失敗がありましたね。正直に人間として育てていれば一郎彦の心の闇もあそこまで大きくならなかったのではと思ってしまう。
あれから一郎彦がどうなったのかは分かりませんが、「渋天街」で新たにやり直していくことになるのかな。彼にも自分の居場所が見つけられたらいいなと思ってます。