猿の惑星
年 | 1968年 |
---|---|
時間 | 112分 |
監督 | フランクリン・J・シャフナー |
宇宙探検に出発したテイラーたちは見知らぬ惑星に不時着する。そこでは人間は野蛮な動物で、猿が知的生物だった。猿たちに捕らえられたテイラーは自分が知的生物であることを訴え、チンパンジーのジーラ博士とコーネリアスが理解者となる。しかしオランウータンのザイアス博士はテイラーを認めず、ジーラたちと対立する。追われるテイラーとジーラたちの運命は…?
実は映画館で見たことはなくて、後になってからテレビやビデオで知った作品。最初に見たのはブラウン管のアナログテレビだったので、後年BDで見直して映像がとてもきれいだったことにびっくり。すごい大作だったじゃないですかー。アナログテレビでしか見てない昔の作品は2K以上で見直してみる意味ありますね。イメージ払拭されますから。
個人的には「猿の惑星」は映画より原作小説派なのですが、映画にも映画の面白さがありますね。原作にもあった人間の風刺劇は映像がある分、より分かりやすくなっていると思います。ただ映画では小説のオチを使うのが難しかったようで、あの有名なラストシーンは実は原作にはない映画オリジナルのオチ。原作を知らずに映画のオチが衝撃だと思っている人には、是非小説のオチも味わって欲しいところです。
猿のメイクは当時にしてはすごかったと思う。猿の町の作り込みもいい。ちょっと昔の古き良き時代のアナログ文明を思わせて、これなら自然を壊す人間より猿に任せちゃってもいいんじゃ?と思えてしまう(^^;。映画版もテイラーに理解を示すジーラが魅力的。頭の固いザイアスの振る舞いは人間にもあるあるですが、彼が本当に恐れていたこととは…?
<ネタバレ>
映画では何故か猿たちは英語を話しています。それだけならよくあるご都合主義によるお約束かなと思うのですが、文字までアルファベットのままスラッとジーラたちに通じるのはさすがに「あれ?」と思う。原作では猿語と地球語(フランス語)を互いに理解し合うだけでも大変だったのに、いくら映画と言えどそれは雑過ぎじゃ…と思うが実はそうではなかった。映画では言葉の問題をオチを変えることでクリアしていたのでした。
ザイアスは実は猿文明より過去に高度な人間文明があったことを知っていた。だがそれはザイアスの信じる「聖典」を覆すものだった。新しい仮説を唱えたジーラたちと対立したのは「聖典」の教えを守るため。ザイアスにとってテイラーの出現は「聖典」が覆される危険を意味していた。ジーラたちの仮説と生き証人のテイラーを封じ込めるため画策するザイアスですが、コーネリアスの発掘した遺跡が前時代の人間文明を証明することになる。結局テイラーとノバは見逃すことになったけど、ザイアスは最後までザイアスだったなあ。
そしてこの後、映画オリジナルのオチへ。人間が最高の高等生物だと思っていたテイラーにとっては人間と猿の立場が逆になってるだけで耐えがたかっただろうに、猿の惑星が実は未来の地球だった=滅びた人間文明こそ自分たちのことだった、と言うのは凄い衝撃だったと思います…。地球が猿の惑星になるのは原作小説でも示されているので、映画ではこういう形で表現したのですね。
ということで、猿たちが英語を話し、文字もアルファベットを使っていたのは、実はここが未来の地球だったから──ということで切り抜けた映画版。それなら猿が英語を話す時点で気付けよテイラー、と突っ込みたくなりますが、そこは見逃すのがお約束か。
人間と猿を逆転させることで痛烈な人間風刺・批判をやっているのは小説も映画も同じ。映画には映像による衝撃がありますから、そこは映画ならではの見どころでしょう。