ペンギン・ハイウェイ[小説]

ペンギン・ハイウェイ角川文庫

著者 森見登美彦

アニメ映画「ペンギン・ハイウェイ」を見たものの、よく分からなかったので原作本も読んでみました。で、やっと分かったのですが、これは「好奇心・探究心旺盛な子どもが自分を取り巻く世界の謎を解く話」だったのですね。以下、アニメ映画のネタバレも含んでいますのでご注意。

子どもの頃、世界は謎と不思議に満ちていた。私もそうだった。空はなぜ青いのだろう。空はどこまで続くのだろう。人はなぜ動くのだろう。鳥はどうして飛ぶのだろう。海って何だろう。水って何だろう。世界はどこまで続くのだろう。世界は知らないことばかりで、知りたくて知りたくて大人に聞いて本を読んで調べて、それでも知り足りなくて知識に飢え続けていたあの頃。

小学4年生のアオヤマくんにとっても世界は謎と不思議だらけで、謎は全て研究に値する。ペンギンも、水路の探索も、地図作りも、そしてそれらと同じレベルで「お姉さん」も謎である。お姉さんはクラスメートの女の子とも母親とも違う。ハマモトさんの胸になくてお姉さんの胸にあるモノは、子どもにとってそれだけで十分「謎」であり「不思議」なのだ。つまり、おっぱいは私がアニメで感じたような少年の特別な思いとかではなくて、水路や球体と同レベルでの謎の1つという位置付けだった。それなら私にも分かるし入っていける。

謎の正体なんて多分何でもいいのだと思う。大事なのは好奇心と疑問と探究心を持って調べて研究することの楽しさだから。しかし謎が解明できて謎が謎でなくなったら、その謎は世界から消えてしまう。だからペンギンもお姉さんも消えてしまった。そしてお姉さんが消えたことでやっと少年は気付く。自分はお姉さんが大好きだったけど、それは友だちとしてではなく本当は恋だったことに。少年は思う。今度は大人になってお姉さんともう一度会うのだと。その時彼の世界は新しいステージに入るだろう。それがアオヤマくんの物語の帰結するところだったんだね。

あと、もしSFな事象が出現した時それを子ども目線から描いてみたらどうなるか、というシミュレーションにもなってるのが面白い。大人なら常識に縛られた行動に走りがちなところを素直な目で見られる、こういう所は大人になっても忘れたくないものだと思いました。

小説のいいところは絵も声もないので自分で好きなように想像しながら読めることです。だからファンタジーにもSFにもなれる。アニメだとリアルな背景描写や声が入るので、小説を読んでいる時よりずっと生々しく感じてしまい想像の余地が狭くなる。しかも小説の全てが入っているわけでもないし、話のテンポも違うので、小説とアニメで捉え違いも生じてたようです。アニメではアオヤマくんは最初からお姉さんへの恋を自覚してるように感じてたけど(だからラストでアオヤマくんの物語がどう帰結したのかが分からなかった)、小説では最初は自覚はなくてお姉さんが消えてから初めて自覚するところがミソだった(つまり最初と最後で主人公の「好き」の意味が変わっており、そこに成長と切なさがある)。

確かにアニメ向きの描写も多いし、その点ではアニメは成功してると思うけど、作者の表現したいことを感じ取るには小説の方が向いてるかな?と思いました。